張ダビデ牧師 – 人を取る漁師の召命


Ⅰ. 教会の基礎:イエスキリストという土台

私たちが教会を奉献し、各地に礼拝の場所を建てるのは、根本的に「イエス・キリスト」という堅固な土台の上に自分たちの信仰と希望を築き上げたいからです。聖書のコリント人への第一の手紙3章10~11節でパウロはこう語っています。「私に与えられた神の恵みによって、私は熟練した建築家のように土台を据えました。他の人がその上に建てるのです。しかし…だれもすでに据えられているこの土台のほかに、他の土台を据えることはできません。この土台はイエス・キリストです」。すべての教会奉献は、イエス・キリストの福音の上に基礎を据えることから始まるのです。これが揺らいではいけません。人が大金を投じて壮大な建物を建てても、そこにイエス・キリストの福音がなければ、いったいどんな意味があるでしょうか。建物がどれほど大きく、教勢がどれほど拡大しても、それがイエス・キリストの土台ではなく、ほかの価値に基づいているならば、嵐や試練が襲ってきたときに結局は崩れ去ってしまうのです。

私たちの建物と共同体がどれほど堅固に続いていくかは、まさにこの「土台」をどこに置くかにかかっています。マタイの福音書7章12節にある黄金律を語られた後、イエス様は岩の上に家を建てた賢い人と、砂の上に家を建てた愚かな人のたとえを続けて教えてくださいました。人々はしばしば家の外観だけを見て「立派だ」「頑丈そうだ」と称賛しますが、それが本当に岩の上に建てられているかどうかは外からは簡単にわからないことが多いのです。ただ、大雨が降り、水かさが増し、強い風が吹く時が来ると、どの家が岩の上にあり、どの家が砂の上に建っているのかがはっきりと分かるのです。

現代でも同じことが言えます。教会を奉献し、またほかの地域に教会を拡張しようとする動きを見るとき、私たちは何よりも「この教会は本当にイエス・キリストの土台の上に建てられているのか?」と問いかける必要があります。お金や名誉や教権を土台としているのではなく、徹底的にキリストの福音に根差しているのか、絶えず確かめるべきです。初代教会でもそうでしたし、宗教改革の時代を経る間にも、真の教会がどこに建てられたのかを巡って長い争いや試練がありました。歴史を振り返ると、単に制度や建物の規模ではなく、「キリストという土台が実在するのか」が、共同体の生き残りと隆盛を左右してきたのです。

張ダビデ牧師も常に教会を建てるたびに強調してきた核心的価値は、「ただイエス・キリスト」という土台でした。教会奉献礼拝を行うときも、異国の地に新しい教会を開くときも、み言葉を宣べ伝えるときも、くり返し語られてきたメッセージがあります。それは「この建物や地域、あるいは組織の名前が重要なのではなく、私たちが実際にこのイエス様の救いとみ言葉を土台としているかどうか」です。救いのない教会、福音がかすんでしまった教会は、決して神の前に真の教会として立つことはできません。

人が何かを建設するとき、まず何をするべきでしょうか。土地を固め、岩盤を探し出して基礎を築くことが必要です。中には、目に見える建物の形を早く作りたくて、基礎工事をおろそかにする人もいます。しかし、実際の建設現場では、基礎工事は全工期の半分またはそれ以上を占めるほど、最も重要な工程です。目に見えなくても、基礎さえしっかりしていれば、その建造物は時代の変化や風雪に耐え抜く力を備えるのです。

同じように教会奉献も、目に見える礼拝堂の外観や装飾に先立ち、イエス様を隅のかしら石とし、そのみ言葉を私たちの根本に据えることにかかっています。私たちは飾りを施すこともできるし、美しい言葉を並べることもできますが、イエス様から離れてしまえば、建物も共同体も光を失い、命を失ってしまう近道になるだけです。

コリント第一3章12節以下でパウロは、教会という建造物を建てる過程で使われる材料について言及します。「もし誰かがこの土台の上に金や銀や宝石や木、草、わらで建てるならば、それぞれの働きが明らかになります…」と。私たちは教会を建て上げる中で、多様な「材料」を使うことになります。金や銀、宝石のような貴重な材料を使うかもしれないし、木や草、わらのように手に入りやすいが火に燃えやすい材料を使うこともあります。どんな材料を使うかは、私たちの献身と信仰、そして動機に左右されます。

パウロの要点はこれです。教会を建て上げるすべての人は注意しなければならない。「果たして私はどんな材料を持ってこの教会を建てているのか?」という問いを忘れてはならないのです。自分の高慢や欲、自分が高くなりたい思いで教会を建てるなら、それはいつか火に焼かれ、消え去ってしまうでしょう。しかし、へりくだりと従順、犠牲と愛によって教会を建てるなら、それは金や銀のように精錬され、さらに純粋に輝くようになるのです。

私たちが火の試練に遭うとき、その働きが火で焼き尽くされるか、あるいはさらに輝きを増すかが決まります。教会は世の試練に遭遇します。お金の試練、愛の試練、名誉の試練、さまざまな誘惑と苦難が襲ってきます。教会に通う信徒の人生も同じです。しかし試練に遭うたびに、もしイエス・キリストの土台がはっきりしていれば、決して崩れることはありません。なぜなら私たちの土台は、人や財政、組織力ではなく、神の御子イエス・キリストの福音だからです。

イエス様ご自身が受けられた試練を思い起こしてみてください。サタンはイエス様にお金(パン)・名誉(天下万国の栄光)・愛(神への疑いを誘い、飛び降りて救いを試す)に関する誘惑を投げかけました。イエス様は御言葉によってそれに打ち勝たれました。今日の教会が成長していく過程でも、この誘惑は同じように再現されます。教会を運営していると財政問題が起きるかもしれないし、教勢が大きくなると名誉への渇望が生じるかもしれません。多くの人々の注目を集めると、「愛」や「人気」の名の下に高慢になってしまう可能性があります。ですが、そのたびに「イエス様ならどうなさっただろうか」「これは本当に福音の道なのか」と問い直せる共同体でなければなりません。

私たちが教会を建てる核心の目的は「神を礼拝し、一人でも多く救われるようにし、神に祈り神からの答えを受ける聖なる場所となること」です。教会は万民が祈る家(イザヤ56章7節、マルコ11章17節)であり、救いの箱舟となるべきです。イエス様の時代、エルサレム神殿が宗教指導者たちによって「強盗の巣窟」と化してしまったという例えは、私たちの教会もいかようにも堕落しうることを警告しています。お金や利害関係、ポスト争い、教権が教会を支配し始めると、そこからイエス様の栄光は失われ、「強盗の巣窟」となる危険があるのです。

では、どうすれば教会が「万民が祈る家」となることができるでしょうか。まず信徒をはじめ教会のすべての働き手が常に神の前にへりくだり、自分自身を振り返り、み言葉によって自分を焼き尽くし(全焼のいけにえの意味のように)、聖霊の照らしを求めなければなりません。その過程なしに「私たちは礼拝を捧げています、建物を奉献しました」という形式だけを重んじるなら、結局は本質から遠ざかりやすいのです。

特に教会を建設する過程でも、この思いを持ち続けるべきです。「主よ、この建物がまったく主の栄光と福音の拡張のために用いられますように。私たちが主の教会にお金や才能を捧げるとき、それが私たちの虚栄や高慢ではなく、すべて主に捧げられる全焼のいけにえとなりますように」。このように祈りつつ建てられた教会ならば、たとえ建物自体は豪華でなくても、神の臨在と恵みがとどまる場所となるでしょう。

イスラエルの民がエルサレム神殿を中心に集まった理由を考えてみましょう。神殿とは単にいけにえをささげる空間を超えて、「神の聖なる臨在」が象徴される場所でした。彼らは神殿こそ共同体のアイデンティティであり祝福の源だと信じ、すべての祭りや礼拝は神殿を中心に行われました。今日、私たちが教会を奉献するというのはそれと同じ意味を持ちますが、さらに聖霊が内住される時代にあっては、教会という物理的空間だけでなく、信徒一人ひとりが「神殿」とされるという聖書的な真理があります(第一コリント3章16節参照)。

それゆえ、教会を建てて奉献することも大切ですが、同時に自分自身の「霊的神殿」をしっかり建て上げているかどうかを振り返る必要があります。外見的には立派な教会を建てたとしても、そこに集う信徒一人ひとりがみ言葉と祈りによって自分を聖なるものとして建て上げていかなければ、その教会はいつの間にか空っぽの殻になってしまう可能性があります。反対に、外からは小さく粗末に見えたとしても、その中に集う人々が互いに愛し合い、献身し、イエス様の土台を堅く守っているならば、その教会は世の光と塩となるでしょう。

トライステート地域(ニューヨーク、ニュージャージー、コネティカット)に近年いくつもの教会が建てられたのも、こうした文脈によります。ニューヨーク、ニュージャージー、そしてコネティカットという大都市や人口密集地域に教会を置くことで、さまざまな国籍や世代の人々が集まり、神を礼拝し祈り、また救いの福音を伝えるためです。ニューヨーク・イマヌエル、ニュージャージー・イマヌエル、コネティカット・イマヌエルなどと呼ばれる教会は、それぞれ地域に合わせて設立されていますが、すべてに共通しているのは「イエス・キリストの御名をあがめ、一人でも多くの人を救いへ導き、万民が祈る家となること」という同じ目的を持っている点です。

これらの教会は、以前にメソジストやカトリック、バプテストが建てた建物を買い取り、新たに奉献する形で建てられました。ある人は「なぜ既存の教派が使っていた建物を買うのか。新しい土地を探して新しい建物を建てればいいのでは?」と思うかもしれません。しかし本質は、その建物が属していた教団や見た目ではなく、「今ここでイエス・キリストの土台の上に新たな共同体が誕生するのかどうか」です。エサウが空腹に耐えられず、長子の権利をヤコブに売り渡した聖書の場面を振り返れば、貴いものの価値を見失う選択がいかに愚かなのかがわかります。私たちは神が与えてくださった教会の価値と祝福を、つまらない理由で失ってしまわないように、いっそう注意しなければなりません。

実際に張ダビデ牧師が各地域に教会を建て、奉献するたびに強調するのは「決してこの教会の建物を世俗的な理由で売り払わないようにしよう」という決断でした。神の教会は「長子の権利」と同じように尊いものであり、どんな理由を付けても個人の利益や瞬間的な得失のために売り払うような愚行は起こしてはならない、というのです。「あなたの神、主を覚えなさい」(申命記8章18節)というみ言葉をいつも心に留め、教会が大きくなればなるほど、かえってもっとへりくだり、もっとみ言葉にしっかりと立つ共同体にならなければなりません。

教会を奉献するというのは、突き詰めれば「祝福の器官(機関)」を建て上げることです。教会が建つ場所ごとに、人々の魂が回復し、家庭が回復し、さらにはその地域社会全体が神に立ち返るという御業が起こります。すぐ目に見える実が少ないかもしれませんが、教会奉献を通して神の国が次第に拡張されていくということは疑いようのない真理です。パウロが告白したように、彼はすべての情熱を注いで福音を伝え、教会を建てました。私たちもそれぞれに与えられた才能と召命に応じて教会を建て、奉献することができます。

しかし、このすべての奉献の土台は「イエス・キリストの土台」でなければならないことを決して忘れてはなりません。教会奉献式や行事のとき、まず真っ先に「キリストの救いのみわざ」を宣言し、教会の存在目的を明確にするのはそのためです。イエス様が抜け落ちた教会奉献は、教会ではなく単なる建物の奉献にすぎません。

教会奉献の基礎を改めて整理すると、次のようになります。

  1. イエス・キリストの福音が核心であること。
  2. 教会は万民が祈る家であり、そのために祈りとみ言葉が教会の中心であること。
  3. この教会を通して最終的に一人でも多くが救いに至るように助けることが、教会設立の最優先目的であること。
  4. 試練と誘惑が押し寄せてきても、教会が決して揺るがないように「イエス・キリストの土台」の上に堅く立つこと。

張ダビデ牧師が昔から繰り返し強調してこられたことも、これと同じ流れにあります。「教会奉献は決して一度きりのイベントではなく、その教会が存在する限り、常にキリストの福音の上に自らを再点検し、そこに立ち続けるプロセスである。日々み言葉によって基礎を固めなければ、どれほど美しい礼拝堂を建てても、いずれ揺り動かされてしまう」。この教えは時代を問わず適用される真理であることを、私たちは教会を奉献するたびに改めて悟りたいものです。


Ⅱ. 私たちのアイデンティティと使命:人を取る漁師の生き方

教会を建てる理由、奉献の究極の目的は「一人でも多くを救いに導くこと」にあります。ですから私たちは自らに問いかける必要があります。「私たちは何者なのか。私たちのアイデンティティは何であり、何のために生きているのか」。イエス様はペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネを召されたとき、「あなたがたを人を取る漁師にしてあげよう」(マタイ4章19節)と言われました。これはすべての弟子たちに共通して与えられたアイデンティティを表しています。私たちがよく言う「大宣教命令(Great Commission)」も、同じ流れで理解できるでしょう。

マタイの福音書28章19節以下で、イエス様は昇天される直前に弟子たちに命じられました。「それゆえ、あなたがたは行って、すべての民を弟子としなさい…父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい」。教会を建て、人々を伝道してバプテスマを授け、弟子として養成することは、イエス様の最後の地上命令なのです。このように人を救い、神へと向かわせることこそ、教会の本質的な務めであり、私たちのアイデンティティでもあります。

私たちが各地に教会を奉献するのも、究極的には「人を取るため」です。ベツサイダという町の名前は「漁師たちの家」という意味ですが、イエス様の弟子であるペテロとアンデレが住んでいた場所であり、五つのパンと二匹の魚の奇跡が起きた地でもあります。この地名からもわかるように、教会は人々が「命を獲る」漁師たちの家でなければなりません。もし教会がこのアイデンティティを失い、ただ快適な信仰生活を求めるだけになったり、社会活動のみを目的としてしまうなら、本来の使命を失ってしまうことになるのです。

パウロの言葉を思い起こしましょう。コリント第一の手紙9章で、パウロは自分がさまざまな姿になって宣教し、ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、律法の下にある者には律法の下にある者のように行動したと説明しています(9章20~21節)。それはなぜでしょうか。「少しでも多くの人を救うためだ」とパウロは語っています(9章22節)。これこそが「人を取る漁師」の姿勢です。

張ダビデ牧師も一貫して強調しているアイデンティティはまさにこれです。「私たちは教会を建てる人々である前に、人々を主のもとに立ち返らせ、救いに導くことに献身する人々だ。教会を奉献する目的も、結局はその魂たちを抱き、イエス様へ導くためなのだ」。この言葉に照らすと、ある人にとって教会は構造的なプログラムや装飾、大きな礼拝堂に目が行きがちですが、真の教会の栄光は「一つの魂が主に立ち返ること」にあるのだということです。

実際にパウロはコリント第一の手紙9章26節で「私は走るにもはっきりとした目標に向かって走っており、空を打つような拳闘はしていない」と宣言しました。彼には明確なゴールがありました。そのゴールとは伝道、すなわち一人でも多くを救うという熱意だったのです。このように教会共同体が、目的もなくただプログラムを回したり、行事を行ったりするのではなく、「どうすれば失われた魂を主に導くことができるだろうか?」を考え、実行しなければなりません。それが私たちの使命です。

伝道のために、私たちは多様な方法を用いることができます。時には高尚な神学的議論を用いる場合もあるでしょうし、時には質素な分かち合いや仕えを通して、人々の心を得ることもあるでしょう。中世や近世初期には、キリスト者たちが世界宣教に積極的に取り組まなかったという歴史を振り返ると、人間は往々にして「目的のない走り」をしてしまうものだと痛感します。ウィリアム・ケリーが現れるまで、本格的なプロテスタント世界宣教が盛り上がらなかったことを考えれば、教会がいくらでも内輪だけで時間を浪費してしまう可能性があるということです。

しかしイエス様は私たちに「行って弟子としなさい」と命じ、「わたしはあなたがたを人を取る漁師にしよう」と宣言されました。これは逃れられないクリスチャンのアイデンティティであり、同時に義務です。教会を建てて奉献しても、ただ豪華な礼拝堂を用意しただけで満足してはいけません。その教会がどうやって魂を獲り、主に導くのか、弟子として養成する働きを担うのかを常に問い続けなければなりません。

イチジクの木のたとえ(ルカ13章6~9節)を見ると、実を結ばない木をぶどう園の主人が切り倒そうとしたとき、ぶどう園の管理人が「ご主人さま、今年もそのままにしておいてください。周りを掘り起こし、肥やしをやってみます。それで後にもし実を結べば結構です。もしそれでもだめなら切り倒してください」と願います。このみ言葉は私たちに「実のない時間」への警告を与えます。教会が奉献され、1年、2年、3年と経ってもそこで救われる魂がなく、人々を主のもとに導く実が生じないならどうでしょうか。イエス様は実を結ばないイチジクの木を呪われ、さらに価値を失ったものにははっきりとした態度を示されました。

人は豊かになり、財政が潤うと、しばしば神を忘れやすいものです。申命記8章13~14節、18節を見ると、「牛や羊が増え、銀や金が増し、所有物が豊かになった後に心が高ぶり、あなたの神、主を忘れてしまわないか心配だ…あなたの神、主を覚えなさい」という内容があります。神は私たちの人生に祝福をくださいますが、その祝福によって心が高ぶり、神を忘れてしまわないように警告しておられます。今日の教会も同じです。教会が成長し、人も財政も増え、社会的な認知度も上がれば上がるほど、霊的に目を覚ましているのは難しくなります。だからこそ私たちは絶えず「私たちは人を取る漁師だ。私たちの使命は福音を伝え、救いのわざを成すことだ」というアイデンティティを再確認しなければなりません。

「本当のスターとは誰か?」という問いについても考えられます。世には歌が上手なスター、演技の巧みなスター、ビジネスで成功したスターなどがあふれています。しかしダニエル書12章3節によれば、「多くの人を正しい道に導いた者は星のように永遠に輝く」とあります。世のスターは時が経てば人気が衰えたり、忘れられてしまうかもしれませんが、人を主に立ち返らせた者は永遠に輝くというのです。

私たちが教会を奉献する目的もここに見いだせます。人々を救いに導き、彼らを神に祈る者とし、主のみ言葉を聞いて成長させることこそ、教会が存在する理由です。ある教会は奨学事業や救済活動、社会奉仕に力を入れるかもしれません。しかし、それが「人を救う目的」と切り離されてしまうなら、本末転倒になりかねません。教会がどんなに善行を行っても、その究極は「福音の宣教と救いの働き」にあると聖書は繰り返し強調しているのです。

私たちがトライステート地域に複数の教会を構え、それぞれに「イマヌエル」という名を付けているのも、「神が共におられる」というメッセージをはっきりと刻むためです。神が共におられるとき、人々は立ち返り、回復され、救いのわざが進んでいきます。そしてその教会の中では自然と祈りが生まれ、み言葉中心の聖なる生活が営まれていきます。

教会は単に「礼拝を一度ささげるだけの場所」ではなく、「万民が祈る家」であり、同時にクリスチャンのアイデンティティを回復し、訓練する霊的前哨基地です。そこにおいて私たちは神を礼拝し、み言葉を黙想し、互いに愛し合い仕え合うことで、世に遣わされ、さらに多くの魂を取る使命を果たすのです。

もし教会がこの使命を放棄し、「私たちはただ集まって、私たちだけで平穏に過ごせばいい」と考えるならば、それはイチジクの木のたとえにある「実のない空虚な姿」になってしまうでしょう。神は私たちが世へと出て行くように命じられました。神がエレミヤ1章5節で預言者エレミヤを召された際、「わたしはあなたを諸国の民の預言者とした」と言われたように、弟子たちにも「すべての国民を弟子とせよ」と命じられたみ言葉が、今も私たちに与えられているのです。

このとき大切なのは、私たちそれぞれが召された場所でいろいろな形で、いろいろな方法で伝道や救いの働きを担うということです。パウロのように柔軟にアプローチするときもあるでしょうし、私たちが持っているタラント(賜物)を活用して伝道することもあるでしょう。ある人は賛美によって、ある人はメディア伝道で、またある人は教えや弟子育成を通して、人々を主のもとに導くことができます。問題は「そうして本当に魂が主に立ち返るのか」という点です。その実を得るために不断の努力をするのが「人を取る漁師」の本分です。

教会を奉献するというのは、結局のところ私たちのアイデンティティと使命を再確認するプロセスでもあります。「私たちは教会を通して神を礼拝し、祈り、人々を主に導く者である」。一人でも多くを救うために助けることが私たちの存在理由であり、教会そのものの存在目的です。ある人は教会を単なる「宗教施設」あるいは「社会奉仕機関」と捉えるかもしれませんが、聖書が語る教会とは「イエス・キリストのからだ」であり、「福音を宣べ伝える弟子たちの集まり」であり、「万民のために祈る神の家」なのです。

張ダビデ牧師が何度も説教や書簡、講演などで一貫して教えてきたことも、この真理と同じです。「私たちはグレート・コミッションの民であり、人を取る漁師たちだ。教会を奉献し、福音を伝えるすべての行為は、その一つの目的、すなわち『魂を救い神へ立ち返らせること』へと収斂していくのだ」。

結論として、私たちが各地に教会を建て、美しく奉献し、その場所で熱心に礼拝するのは、ただイエス・キリストの福音を伝えるためです。その福音には罪人を救う力があり、神と人とをつなぐ架け橋となります。私たちはこの福音を握りしめ、「万民のための祈りの家」である教会の本来の役割を回復し、一人でも多くを主へ導くために力を尽くす共同体となるべきです。

このことは決して容易ではありません。教会が大きくなればなるほど、また建てられる教会が増えれば増えるほど、多様な問題や試練が必ず起こります。財政上の問題や組織運営上の問題、人間関係の衝突、社会的な誤解など、さまざまな挑戦が出てくるでしょう。しかし私たちは常に「イエス・キリストという土台の上に立ち、人を取る漁師として生きる」というアイデンティティを握っているとき、そうした試練の中でも動揺せずにいられるのです。

また教会が実を結ばず、長い間何もせず空しく過ごしているならば、神はある時その教会を叱責されたり、さらには教会の門を閉ざされることさえありえます。私たちはイチジクの木のたとえを思い出さなくてはなりません。「ご主人さま、今年もこのままにしておいてください。周りを掘って肥料をやりますので…」というくだりは最後のチャンスのようなものです。ですから教会が実を結ばないままならば、結局はその土地を荒らす存在になってしまいかねません。

一方で、本当に「人を取る漁師」として使命をまっとうしたいと願うならば、神は油注ぎと導きを惜しまず与えてくださいます。教会が少人数であれ多人数であれ、子どもから大人に至るまでみなが「どうすれば隣人に福音を伝えられるだろうか」「どうすれば一人の魂を救うことができるだろうか」と考え、祈るならば、聖霊は必ずその祈りに応えてくださり、教会は成長するのです。

こうした信仰の実例は海外宣教地でも確認できます。たとえばザンビアに派遣された宣教師が、現地の仲間たちと共に泥を踏んでレンガを作り、粗末な教会を建てながら、周囲の魂を支える写真などを見ると、教会とは結局「建物」を超えた「使命を果たす場」なのだとはっきりわかります。立派な建物がなくても神の言葉を教え、祈りによって魂を生かし、実際に命を守る共同体が存在することは、私たちに大きな挑戦を与えます。

「歴史を記録せよ」という勧めも大切です。教会が建てられる過程、人々が伝道されて救われるストーリー、奉献礼拝の瞬間などを丹念に記録しておくことは、後の世代の信徒たちにとって大きな遺産となります。どれほど困難で厳しい時間を過ごしていたとしても、神がどのように働かれたのか、どんな祈りの課題にどう応えてくださったのかを残しておけば、それがまさに「私たちの共同体のアイデンティティ」となるのです。「神は私たちと共におられた。私たちは福音宣教のために走ってきたし、これからもその道を行くのだ」という信仰の物語となって、再び人を取る漁師として生きる勇気を得るのです。

教会を奉献する目的と、私たちのアイデンティティである「人を取る漁師」の生き方は切り離せません。教会の建物はあくまで手段であって、目的は「魂を救い、神の御名をあがめ、主の御国を拡張すること」です。ゆえに私たちがどんな教会を建てるにしても、その中でイエス・キリストという土台にしっかり立ち、福音を伝え、祈り、人々を主に導くことに集中しなくてはなりません。

そうするとき、教会が遭遇する火の試練にも十分耐え抜くことができます。火の試練は、その教会がどのような材料で建てられたかを暴露します。愛と犠牲、へりくだりと真理によって建てられた共同体であれば、火の試練を通してさらに強固になり、純粋にされていくでしょう。しかし高慢やねたみ、分裂や貪欲にまみれていれば、火の試練の前に崩れ去ってしまいます。

「本人は救いを得るが、火の中をくぐるようなものだ」(第一コリント3章15節)という言葉は、非常に恐ろしい警告であると同時に希望のメッセージでもあります。最終的にイエス様の内に救いを得ても、教会の中で積み上げた働きがまったくないならば、それは火に焼かれて消え失せたようなものだからです。だからこそ私たちは火に焼かれず永遠に残る、金や銀、宝石に例えられる献身と愛、そして真理の上に立たなければなりません。

教会を奉献することは地上にいる間だけ有効な行為ですが、そこで担った魂の救いの働き、そこでささげられた祈りと礼拝、キリストの愛によって結ばれた実は永遠へとつながる価値を持ちます。ですから私たちは教会を奉献するたびに、「ただイエス・キリストという土台の上で、人を取る漁師として生きよう」と改めて決心すべきです。

張ダビデ牧師が常々強調しているように、教会の繁栄は多面的に尊い祝福であると同時に、さらに大きな責任を意味します。申命記28章2節の「もしあなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、これらすべての祝福があなたに臨む」というみ言葉のように、いつも神の声に聞き従い、教会が大きくなるほど、むしろいっそう謙遜に福音に献身しなければなりません。人を取る漁師のアイデンティティを失った瞬間、私たちはイチジクの木のたとえにある裁きを免れないかもしれません。

教会奉献の基礎と私たちのアイデンティティは別々のものではなく、一つです。イエス・キリストという土台の上に教会を建てることは、すなわち「人を取る漁師として生きる」という私たちの決断の表れでもあります。この道からそれなければ、どんな困難や試練があっても教会は決して倒れず、むしろ神が望まれる豊かな実を結び、周囲の人々を主に導く力ある器となるでしょう。

神はトライステート地域をはじめ世界各地に建てられ、奉献される教会を通して、さらに多くの人々を救いへと招き、私たちが祈りの家、万民が礼拝する家をしっかりと打ち立てられるよう助けてくださると信じます。私たちがアイデンティティと使命を失わず、昼も夜もみ言葉を黙想し、祈りに献身することによって、この地上で焼かれない働き、そして永遠に輝く星のような魂の実を刈り取る教会と信徒になれることを切に願っています。

www.davidjang.org

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