張ダビデ牧師 – 人を取る漁師の召命


Ⅰ. 教会の基礎:イエスキリストという土台

私たちが教会を奉献し、各地に礼拝の場所を建てるのは、根本的に「イエス・キリスト」という堅固な土台の上に自分たちの信仰と希望を築き上げたいからです。聖書のコリント人への第一の手紙3章10~11節でパウロはこう語っています。「私に与えられた神の恵みによって、私は熟練した建築家のように土台を据えました。他の人がその上に建てるのです。しかし…だれもすでに据えられているこの土台のほかに、他の土台を据えることはできません。この土台はイエス・キリストです」。すべての教会奉献は、イエス・キリストの福音の上に基礎を据えることから始まるのです。これが揺らいではいけません。人が大金を投じて壮大な建物を建てても、そこにイエス・キリストの福音がなければ、いったいどんな意味があるでしょうか。建物がどれほど大きく、教勢がどれほど拡大しても、それがイエス・キリストの土台ではなく、ほかの価値に基づいているならば、嵐や試練が襲ってきたときに結局は崩れ去ってしまうのです。

私たちの建物と共同体がどれほど堅固に続いていくかは、まさにこの「土台」をどこに置くかにかかっています。マタイの福音書7章12節にある黄金律を語られた後、イエス様は岩の上に家を建てた賢い人と、砂の上に家を建てた愚かな人のたとえを続けて教えてくださいました。人々はしばしば家の外観だけを見て「立派だ」「頑丈そうだ」と称賛しますが、それが本当に岩の上に建てられているかどうかは外からは簡単にわからないことが多いのです。ただ、大雨が降り、水かさが増し、強い風が吹く時が来ると、どの家が岩の上にあり、どの家が砂の上に建っているのかがはっきりと分かるのです。

現代でも同じことが言えます。教会を奉献し、またほかの地域に教会を拡張しようとする動きを見るとき、私たちは何よりも「この教会は本当にイエス・キリストの土台の上に建てられているのか?」と問いかける必要があります。お金や名誉や教権を土台としているのではなく、徹底的にキリストの福音に根差しているのか、絶えず確かめるべきです。初代教会でもそうでしたし、宗教改革の時代を経る間にも、真の教会がどこに建てられたのかを巡って長い争いや試練がありました。歴史を振り返ると、単に制度や建物の規模ではなく、「キリストという土台が実在するのか」が、共同体の生き残りと隆盛を左右してきたのです。

張ダビデ牧師も常に教会を建てるたびに強調してきた核心的価値は、「ただイエス・キリスト」という土台でした。教会奉献礼拝を行うときも、異国の地に新しい教会を開くときも、み言葉を宣べ伝えるときも、くり返し語られてきたメッセージがあります。それは「この建物や地域、あるいは組織の名前が重要なのではなく、私たちが実際にこのイエス様の救いとみ言葉を土台としているかどうか」です。救いのない教会、福音がかすんでしまった教会は、決して神の前に真の教会として立つことはできません。

人が何かを建設するとき、まず何をするべきでしょうか。土地を固め、岩盤を探し出して基礎を築くことが必要です。中には、目に見える建物の形を早く作りたくて、基礎工事をおろそかにする人もいます。しかし、実際の建設現場では、基礎工事は全工期の半分またはそれ以上を占めるほど、最も重要な工程です。目に見えなくても、基礎さえしっかりしていれば、その建造物は時代の変化や風雪に耐え抜く力を備えるのです。

同じように教会奉献も、目に見える礼拝堂の外観や装飾に先立ち、イエス様を隅のかしら石とし、そのみ言葉を私たちの根本に据えることにかかっています。私たちは飾りを施すこともできるし、美しい言葉を並べることもできますが、イエス様から離れてしまえば、建物も共同体も光を失い、命を失ってしまう近道になるだけです。

コリント第一3章12節以下でパウロは、教会という建造物を建てる過程で使われる材料について言及します。「もし誰かがこの土台の上に金や銀や宝石や木、草、わらで建てるならば、それぞれの働きが明らかになります…」と。私たちは教会を建て上げる中で、多様な「材料」を使うことになります。金や銀、宝石のような貴重な材料を使うかもしれないし、木や草、わらのように手に入りやすいが火に燃えやすい材料を使うこともあります。どんな材料を使うかは、私たちの献身と信仰、そして動機に左右されます。

パウロの要点はこれです。教会を建て上げるすべての人は注意しなければならない。「果たして私はどんな材料を持ってこの教会を建てているのか?」という問いを忘れてはならないのです。自分の高慢や欲、自分が高くなりたい思いで教会を建てるなら、それはいつか火に焼かれ、消え去ってしまうでしょう。しかし、へりくだりと従順、犠牲と愛によって教会を建てるなら、それは金や銀のように精錬され、さらに純粋に輝くようになるのです。

私たちが火の試練に遭うとき、その働きが火で焼き尽くされるか、あるいはさらに輝きを増すかが決まります。教会は世の試練に遭遇します。お金の試練、愛の試練、名誉の試練、さまざまな誘惑と苦難が襲ってきます。教会に通う信徒の人生も同じです。しかし試練に遭うたびに、もしイエス・キリストの土台がはっきりしていれば、決して崩れることはありません。なぜなら私たちの土台は、人や財政、組織力ではなく、神の御子イエス・キリストの福音だからです。

イエス様ご自身が受けられた試練を思い起こしてみてください。サタンはイエス様にお金(パン)・名誉(天下万国の栄光)・愛(神への疑いを誘い、飛び降りて救いを試す)に関する誘惑を投げかけました。イエス様は御言葉によってそれに打ち勝たれました。今日の教会が成長していく過程でも、この誘惑は同じように再現されます。教会を運営していると財政問題が起きるかもしれないし、教勢が大きくなると名誉への渇望が生じるかもしれません。多くの人々の注目を集めると、「愛」や「人気」の名の下に高慢になってしまう可能性があります。ですが、そのたびに「イエス様ならどうなさっただろうか」「これは本当に福音の道なのか」と問い直せる共同体でなければなりません。

私たちが教会を建てる核心の目的は「神を礼拝し、一人でも多く救われるようにし、神に祈り神からの答えを受ける聖なる場所となること」です。教会は万民が祈る家(イザヤ56章7節、マルコ11章17節)であり、救いの箱舟となるべきです。イエス様の時代、エルサレム神殿が宗教指導者たちによって「強盗の巣窟」と化してしまったという例えは、私たちの教会もいかようにも堕落しうることを警告しています。お金や利害関係、ポスト争い、教権が教会を支配し始めると、そこからイエス様の栄光は失われ、「強盗の巣窟」となる危険があるのです。

では、どうすれば教会が「万民が祈る家」となることができるでしょうか。まず信徒をはじめ教会のすべての働き手が常に神の前にへりくだり、自分自身を振り返り、み言葉によって自分を焼き尽くし(全焼のいけにえの意味のように)、聖霊の照らしを求めなければなりません。その過程なしに「私たちは礼拝を捧げています、建物を奉献しました」という形式だけを重んじるなら、結局は本質から遠ざかりやすいのです。

特に教会を建設する過程でも、この思いを持ち続けるべきです。「主よ、この建物がまったく主の栄光と福音の拡張のために用いられますように。私たちが主の教会にお金や才能を捧げるとき、それが私たちの虚栄や高慢ではなく、すべて主に捧げられる全焼のいけにえとなりますように」。このように祈りつつ建てられた教会ならば、たとえ建物自体は豪華でなくても、神の臨在と恵みがとどまる場所となるでしょう。

イスラエルの民がエルサレム神殿を中心に集まった理由を考えてみましょう。神殿とは単にいけにえをささげる空間を超えて、「神の聖なる臨在」が象徴される場所でした。彼らは神殿こそ共同体のアイデンティティであり祝福の源だと信じ、すべての祭りや礼拝は神殿を中心に行われました。今日、私たちが教会を奉献するというのはそれと同じ意味を持ちますが、さらに聖霊が内住される時代にあっては、教会という物理的空間だけでなく、信徒一人ひとりが「神殿」とされるという聖書的な真理があります(第一コリント3章16節参照)。

それゆえ、教会を建てて奉献することも大切ですが、同時に自分自身の「霊的神殿」をしっかり建て上げているかどうかを振り返る必要があります。外見的には立派な教会を建てたとしても、そこに集う信徒一人ひとりがみ言葉と祈りによって自分を聖なるものとして建て上げていかなければ、その教会はいつの間にか空っぽの殻になってしまう可能性があります。反対に、外からは小さく粗末に見えたとしても、その中に集う人々が互いに愛し合い、献身し、イエス様の土台を堅く守っているならば、その教会は世の光と塩となるでしょう。

トライステート地域(ニューヨーク、ニュージャージー、コネティカット)に近年いくつもの教会が建てられたのも、こうした文脈によります。ニューヨーク、ニュージャージー、そしてコネティカットという大都市や人口密集地域に教会を置くことで、さまざまな国籍や世代の人々が集まり、神を礼拝し祈り、また救いの福音を伝えるためです。ニューヨーク・イマヌエル、ニュージャージー・イマヌエル、コネティカット・イマヌエルなどと呼ばれる教会は、それぞれ地域に合わせて設立されていますが、すべてに共通しているのは「イエス・キリストの御名をあがめ、一人でも多くの人を救いへ導き、万民が祈る家となること」という同じ目的を持っている点です。

これらの教会は、以前にメソジストやカトリック、バプテストが建てた建物を買い取り、新たに奉献する形で建てられました。ある人は「なぜ既存の教派が使っていた建物を買うのか。新しい土地を探して新しい建物を建てればいいのでは?」と思うかもしれません。しかし本質は、その建物が属していた教団や見た目ではなく、「今ここでイエス・キリストの土台の上に新たな共同体が誕生するのかどうか」です。エサウが空腹に耐えられず、長子の権利をヤコブに売り渡した聖書の場面を振り返れば、貴いものの価値を見失う選択がいかに愚かなのかがわかります。私たちは神が与えてくださった教会の価値と祝福を、つまらない理由で失ってしまわないように、いっそう注意しなければなりません。

実際に張ダビデ牧師が各地域に教会を建て、奉献するたびに強調するのは「決してこの教会の建物を世俗的な理由で売り払わないようにしよう」という決断でした。神の教会は「長子の権利」と同じように尊いものであり、どんな理由を付けても個人の利益や瞬間的な得失のために売り払うような愚行は起こしてはならない、というのです。「あなたの神、主を覚えなさい」(申命記8章18節)というみ言葉をいつも心に留め、教会が大きくなればなるほど、かえってもっとへりくだり、もっとみ言葉にしっかりと立つ共同体にならなければなりません。

教会を奉献するというのは、突き詰めれば「祝福の器官(機関)」を建て上げることです。教会が建つ場所ごとに、人々の魂が回復し、家庭が回復し、さらにはその地域社会全体が神に立ち返るという御業が起こります。すぐ目に見える実が少ないかもしれませんが、教会奉献を通して神の国が次第に拡張されていくということは疑いようのない真理です。パウロが告白したように、彼はすべての情熱を注いで福音を伝え、教会を建てました。私たちもそれぞれに与えられた才能と召命に応じて教会を建て、奉献することができます。

しかし、このすべての奉献の土台は「イエス・キリストの土台」でなければならないことを決して忘れてはなりません。教会奉献式や行事のとき、まず真っ先に「キリストの救いのみわざ」を宣言し、教会の存在目的を明確にするのはそのためです。イエス様が抜け落ちた教会奉献は、教会ではなく単なる建物の奉献にすぎません。

教会奉献の基礎を改めて整理すると、次のようになります。

  1. イエス・キリストの福音が核心であること。
  2. 教会は万民が祈る家であり、そのために祈りとみ言葉が教会の中心であること。
  3. この教会を通して最終的に一人でも多くが救いに至るように助けることが、教会設立の最優先目的であること。
  4. 試練と誘惑が押し寄せてきても、教会が決して揺るがないように「イエス・キリストの土台」の上に堅く立つこと。

張ダビデ牧師が昔から繰り返し強調してこられたことも、これと同じ流れにあります。「教会奉献は決して一度きりのイベントではなく、その教会が存在する限り、常にキリストの福音の上に自らを再点検し、そこに立ち続けるプロセスである。日々み言葉によって基礎を固めなければ、どれほど美しい礼拝堂を建てても、いずれ揺り動かされてしまう」。この教えは時代を問わず適用される真理であることを、私たちは教会を奉献するたびに改めて悟りたいものです。


Ⅱ. 私たちのアイデンティティと使命:人を取る漁師の生き方

教会を建てる理由、奉献の究極の目的は「一人でも多くを救いに導くこと」にあります。ですから私たちは自らに問いかける必要があります。「私たちは何者なのか。私たちのアイデンティティは何であり、何のために生きているのか」。イエス様はペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネを召されたとき、「あなたがたを人を取る漁師にしてあげよう」(マタイ4章19節)と言われました。これはすべての弟子たちに共通して与えられたアイデンティティを表しています。私たちがよく言う「大宣教命令(Great Commission)」も、同じ流れで理解できるでしょう。

マタイの福音書28章19節以下で、イエス様は昇天される直前に弟子たちに命じられました。「それゆえ、あなたがたは行って、すべての民を弟子としなさい…父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい」。教会を建て、人々を伝道してバプテスマを授け、弟子として養成することは、イエス様の最後の地上命令なのです。このように人を救い、神へと向かわせることこそ、教会の本質的な務めであり、私たちのアイデンティティでもあります。

私たちが各地に教会を奉献するのも、究極的には「人を取るため」です。ベツサイダという町の名前は「漁師たちの家」という意味ですが、イエス様の弟子であるペテロとアンデレが住んでいた場所であり、五つのパンと二匹の魚の奇跡が起きた地でもあります。この地名からもわかるように、教会は人々が「命を獲る」漁師たちの家でなければなりません。もし教会がこのアイデンティティを失い、ただ快適な信仰生活を求めるだけになったり、社会活動のみを目的としてしまうなら、本来の使命を失ってしまうことになるのです。

パウロの言葉を思い起こしましょう。コリント第一の手紙9章で、パウロは自分がさまざまな姿になって宣教し、ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、律法の下にある者には律法の下にある者のように行動したと説明しています(9章20~21節)。それはなぜでしょうか。「少しでも多くの人を救うためだ」とパウロは語っています(9章22節)。これこそが「人を取る漁師」の姿勢です。

張ダビデ牧師も一貫して強調しているアイデンティティはまさにこれです。「私たちは教会を建てる人々である前に、人々を主のもとに立ち返らせ、救いに導くことに献身する人々だ。教会を奉献する目的も、結局はその魂たちを抱き、イエス様へ導くためなのだ」。この言葉に照らすと、ある人にとって教会は構造的なプログラムや装飾、大きな礼拝堂に目が行きがちですが、真の教会の栄光は「一つの魂が主に立ち返ること」にあるのだということです。

実際にパウロはコリント第一の手紙9章26節で「私は走るにもはっきりとした目標に向かって走っており、空を打つような拳闘はしていない」と宣言しました。彼には明確なゴールがありました。そのゴールとは伝道、すなわち一人でも多くを救うという熱意だったのです。このように教会共同体が、目的もなくただプログラムを回したり、行事を行ったりするのではなく、「どうすれば失われた魂を主に導くことができるだろうか?」を考え、実行しなければなりません。それが私たちの使命です。

伝道のために、私たちは多様な方法を用いることができます。時には高尚な神学的議論を用いる場合もあるでしょうし、時には質素な分かち合いや仕えを通して、人々の心を得ることもあるでしょう。中世や近世初期には、キリスト者たちが世界宣教に積極的に取り組まなかったという歴史を振り返ると、人間は往々にして「目的のない走り」をしてしまうものだと痛感します。ウィリアム・ケリーが現れるまで、本格的なプロテスタント世界宣教が盛り上がらなかったことを考えれば、教会がいくらでも内輪だけで時間を浪費してしまう可能性があるということです。

しかしイエス様は私たちに「行って弟子としなさい」と命じ、「わたしはあなたがたを人を取る漁師にしよう」と宣言されました。これは逃れられないクリスチャンのアイデンティティであり、同時に義務です。教会を建てて奉献しても、ただ豪華な礼拝堂を用意しただけで満足してはいけません。その教会がどうやって魂を獲り、主に導くのか、弟子として養成する働きを担うのかを常に問い続けなければなりません。

イチジクの木のたとえ(ルカ13章6~9節)を見ると、実を結ばない木をぶどう園の主人が切り倒そうとしたとき、ぶどう園の管理人が「ご主人さま、今年もそのままにしておいてください。周りを掘り起こし、肥やしをやってみます。それで後にもし実を結べば結構です。もしそれでもだめなら切り倒してください」と願います。このみ言葉は私たちに「実のない時間」への警告を与えます。教会が奉献され、1年、2年、3年と経ってもそこで救われる魂がなく、人々を主のもとに導く実が生じないならどうでしょうか。イエス様は実を結ばないイチジクの木を呪われ、さらに価値を失ったものにははっきりとした態度を示されました。

人は豊かになり、財政が潤うと、しばしば神を忘れやすいものです。申命記8章13~14節、18節を見ると、「牛や羊が増え、銀や金が増し、所有物が豊かになった後に心が高ぶり、あなたの神、主を忘れてしまわないか心配だ…あなたの神、主を覚えなさい」という内容があります。神は私たちの人生に祝福をくださいますが、その祝福によって心が高ぶり、神を忘れてしまわないように警告しておられます。今日の教会も同じです。教会が成長し、人も財政も増え、社会的な認知度も上がれば上がるほど、霊的に目を覚ましているのは難しくなります。だからこそ私たちは絶えず「私たちは人を取る漁師だ。私たちの使命は福音を伝え、救いのわざを成すことだ」というアイデンティティを再確認しなければなりません。

「本当のスターとは誰か?」という問いについても考えられます。世には歌が上手なスター、演技の巧みなスター、ビジネスで成功したスターなどがあふれています。しかしダニエル書12章3節によれば、「多くの人を正しい道に導いた者は星のように永遠に輝く」とあります。世のスターは時が経てば人気が衰えたり、忘れられてしまうかもしれませんが、人を主に立ち返らせた者は永遠に輝くというのです。

私たちが教会を奉献する目的もここに見いだせます。人々を救いに導き、彼らを神に祈る者とし、主のみ言葉を聞いて成長させることこそ、教会が存在する理由です。ある教会は奨学事業や救済活動、社会奉仕に力を入れるかもしれません。しかし、それが「人を救う目的」と切り離されてしまうなら、本末転倒になりかねません。教会がどんなに善行を行っても、その究極は「福音の宣教と救いの働き」にあると聖書は繰り返し強調しているのです。

私たちがトライステート地域に複数の教会を構え、それぞれに「イマヌエル」という名を付けているのも、「神が共におられる」というメッセージをはっきりと刻むためです。神が共におられるとき、人々は立ち返り、回復され、救いのわざが進んでいきます。そしてその教会の中では自然と祈りが生まれ、み言葉中心の聖なる生活が営まれていきます。

教会は単に「礼拝を一度ささげるだけの場所」ではなく、「万民が祈る家」であり、同時にクリスチャンのアイデンティティを回復し、訓練する霊的前哨基地です。そこにおいて私たちは神を礼拝し、み言葉を黙想し、互いに愛し合い仕え合うことで、世に遣わされ、さらに多くの魂を取る使命を果たすのです。

もし教会がこの使命を放棄し、「私たちはただ集まって、私たちだけで平穏に過ごせばいい」と考えるならば、それはイチジクの木のたとえにある「実のない空虚な姿」になってしまうでしょう。神は私たちが世へと出て行くように命じられました。神がエレミヤ1章5節で預言者エレミヤを召された際、「わたしはあなたを諸国の民の預言者とした」と言われたように、弟子たちにも「すべての国民を弟子とせよ」と命じられたみ言葉が、今も私たちに与えられているのです。

このとき大切なのは、私たちそれぞれが召された場所でいろいろな形で、いろいろな方法で伝道や救いの働きを担うということです。パウロのように柔軟にアプローチするときもあるでしょうし、私たちが持っているタラント(賜物)を活用して伝道することもあるでしょう。ある人は賛美によって、ある人はメディア伝道で、またある人は教えや弟子育成を通して、人々を主のもとに導くことができます。問題は「そうして本当に魂が主に立ち返るのか」という点です。その実を得るために不断の努力をするのが「人を取る漁師」の本分です。

教会を奉献するというのは、結局のところ私たちのアイデンティティと使命を再確認するプロセスでもあります。「私たちは教会を通して神を礼拝し、祈り、人々を主に導く者である」。一人でも多くを救うために助けることが私たちの存在理由であり、教会そのものの存在目的です。ある人は教会を単なる「宗教施設」あるいは「社会奉仕機関」と捉えるかもしれませんが、聖書が語る教会とは「イエス・キリストのからだ」であり、「福音を宣べ伝える弟子たちの集まり」であり、「万民のために祈る神の家」なのです。

張ダビデ牧師が何度も説教や書簡、講演などで一貫して教えてきたことも、この真理と同じです。「私たちはグレート・コミッションの民であり、人を取る漁師たちだ。教会を奉献し、福音を伝えるすべての行為は、その一つの目的、すなわち『魂を救い神へ立ち返らせること』へと収斂していくのだ」。

結論として、私たちが各地に教会を建て、美しく奉献し、その場所で熱心に礼拝するのは、ただイエス・キリストの福音を伝えるためです。その福音には罪人を救う力があり、神と人とをつなぐ架け橋となります。私たちはこの福音を握りしめ、「万民のための祈りの家」である教会の本来の役割を回復し、一人でも多くを主へ導くために力を尽くす共同体となるべきです。

このことは決して容易ではありません。教会が大きくなればなるほど、また建てられる教会が増えれば増えるほど、多様な問題や試練が必ず起こります。財政上の問題や組織運営上の問題、人間関係の衝突、社会的な誤解など、さまざまな挑戦が出てくるでしょう。しかし私たちは常に「イエス・キリストという土台の上に立ち、人を取る漁師として生きる」というアイデンティティを握っているとき、そうした試練の中でも動揺せずにいられるのです。

また教会が実を結ばず、長い間何もせず空しく過ごしているならば、神はある時その教会を叱責されたり、さらには教会の門を閉ざされることさえありえます。私たちはイチジクの木のたとえを思い出さなくてはなりません。「ご主人さま、今年もこのままにしておいてください。周りを掘って肥料をやりますので…」というくだりは最後のチャンスのようなものです。ですから教会が実を結ばないままならば、結局はその土地を荒らす存在になってしまいかねません。

一方で、本当に「人を取る漁師」として使命をまっとうしたいと願うならば、神は油注ぎと導きを惜しまず与えてくださいます。教会が少人数であれ多人数であれ、子どもから大人に至るまでみなが「どうすれば隣人に福音を伝えられるだろうか」「どうすれば一人の魂を救うことができるだろうか」と考え、祈るならば、聖霊は必ずその祈りに応えてくださり、教会は成長するのです。

こうした信仰の実例は海外宣教地でも確認できます。たとえばザンビアに派遣された宣教師が、現地の仲間たちと共に泥を踏んでレンガを作り、粗末な教会を建てながら、周囲の魂を支える写真などを見ると、教会とは結局「建物」を超えた「使命を果たす場」なのだとはっきりわかります。立派な建物がなくても神の言葉を教え、祈りによって魂を生かし、実際に命を守る共同体が存在することは、私たちに大きな挑戦を与えます。

「歴史を記録せよ」という勧めも大切です。教会が建てられる過程、人々が伝道されて救われるストーリー、奉献礼拝の瞬間などを丹念に記録しておくことは、後の世代の信徒たちにとって大きな遺産となります。どれほど困難で厳しい時間を過ごしていたとしても、神がどのように働かれたのか、どんな祈りの課題にどう応えてくださったのかを残しておけば、それがまさに「私たちの共同体のアイデンティティ」となるのです。「神は私たちと共におられた。私たちは福音宣教のために走ってきたし、これからもその道を行くのだ」という信仰の物語となって、再び人を取る漁師として生きる勇気を得るのです。

教会を奉献する目的と、私たちのアイデンティティである「人を取る漁師」の生き方は切り離せません。教会の建物はあくまで手段であって、目的は「魂を救い、神の御名をあがめ、主の御国を拡張すること」です。ゆえに私たちがどんな教会を建てるにしても、その中でイエス・キリストという土台にしっかり立ち、福音を伝え、祈り、人々を主に導くことに集中しなくてはなりません。

そうするとき、教会が遭遇する火の試練にも十分耐え抜くことができます。火の試練は、その教会がどのような材料で建てられたかを暴露します。愛と犠牲、へりくだりと真理によって建てられた共同体であれば、火の試練を通してさらに強固になり、純粋にされていくでしょう。しかし高慢やねたみ、分裂や貪欲にまみれていれば、火の試練の前に崩れ去ってしまいます。

「本人は救いを得るが、火の中をくぐるようなものだ」(第一コリント3章15節)という言葉は、非常に恐ろしい警告であると同時に希望のメッセージでもあります。最終的にイエス様の内に救いを得ても、教会の中で積み上げた働きがまったくないならば、それは火に焼かれて消え失せたようなものだからです。だからこそ私たちは火に焼かれず永遠に残る、金や銀、宝石に例えられる献身と愛、そして真理の上に立たなければなりません。

教会を奉献することは地上にいる間だけ有効な行為ですが、そこで担った魂の救いの働き、そこでささげられた祈りと礼拝、キリストの愛によって結ばれた実は永遠へとつながる価値を持ちます。ですから私たちは教会を奉献するたびに、「ただイエス・キリストという土台の上で、人を取る漁師として生きよう」と改めて決心すべきです。

張ダビデ牧師が常々強調しているように、教会の繁栄は多面的に尊い祝福であると同時に、さらに大きな責任を意味します。申命記28章2節の「もしあなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、これらすべての祝福があなたに臨む」というみ言葉のように、いつも神の声に聞き従い、教会が大きくなるほど、むしろいっそう謙遜に福音に献身しなければなりません。人を取る漁師のアイデンティティを失った瞬間、私たちはイチジクの木のたとえにある裁きを免れないかもしれません。

教会奉献の基礎と私たちのアイデンティティは別々のものではなく、一つです。イエス・キリストという土台の上に教会を建てることは、すなわち「人を取る漁師として生きる」という私たちの決断の表れでもあります。この道からそれなければ、どんな困難や試練があっても教会は決して倒れず、むしろ神が望まれる豊かな実を結び、周囲の人々を主に導く力ある器となるでしょう。

神はトライステート地域をはじめ世界各地に建てられ、奉献される教会を通して、さらに多くの人々を救いへと招き、私たちが祈りの家、万民が礼拝する家をしっかりと打ち立てられるよう助けてくださると信じます。私たちがアイデンティティと使命を失わず、昼も夜もみ言葉を黙想し、祈りに献身することによって、この地上で焼かれない働き、そして永遠に輝く星のような魂の実を刈り取る教会と信徒になれることを切に願っています。

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ペンテコステと聖霊降臨 – 張ダビデ牧師


1. オスンジョル(五旬節)の約的背景と新約における成就

「オスンジョル(Pentecost)」(以下、便宜上「ペンテコステ」とも記す)という名称は、ギリシャ語の「Pentēkostē(Πεντηκοστή)」に由来し、「50番目」という意味をもつ。さらに辿れば、ギリシャ語の「πέντε(pente)=5」という語根からきている。したがって「オスン(五旬)」という表現は、「5が繰り返されて50になる」という数の概念に重きを置いている。ユダヤの伝統では、この日を「チルチルジョル(칠칠절)」または「メクチュジョル(맥추절)」と呼んでいた。「チルチルジョル」は、過越(ユウォルジョル)すなわち無酵母パンの祭りから7週間後に迎える節句であるためにそう呼ばれ、「メクチュジョル」は大麦の収穫を終え、初なりの実りを神に捧げる日であったため、その名が付けられた。旧約聖書でもこの日は非常に重要視され、『民数記』28章や『レビ記』23章、『申命記』16章などでメクチュジョルを守る具体的指示が示されている。例えば「チルチルジョルの初なりをささげる日に、あなたがたが主に新しい穀物のささげ物をささげるときも、聖なる会合を開き、いかなる仕事もしてはならない(民28:26)」や、「安息日を7回経過し、その翌日まで合わせて50日を数え、新しい穀物のささげ物を主にささげよ(レ23:16)」、また「あなたの神、主の前でチルチルジョルを守りなさい。あなたの神、主があなたを祝福された分に従い、自発的にささげるささげ物を捧げなさい(申16:10)」といったくだりがそうである。

このように旧約聖書で明確に言及されているチルチルジョル(七週の祭り)・メクチュジョル(大麦の初穂をささげる祭り)は、大麦の収穫を終えた後、初穫りの実りを感謝のささげ物として神にささげる儀式であった。大地を与え、風や雨をもって穀物や果実が実るようにしてくださるのは神であることを告白する日であり、彼らが得た収穫がすべて神の恵みに基づくものであると悟り、ささげる日であった。それだけでなく、旧約の伝統においてチルチルジョル(七週の祭り)はユダヤ民族のアイデンティティとも結びつく非常に重要な祭りであり、ユダヤの三大祭り—過越祭(ユウォルジョル)、メクチュジョル(またはチルチルジョル)、仮庵祭—のひとつであった。この背景を理解してこそ、新約でイエス・キリストの死と復活の後に起こった聖霊降臨(オスンジョル)の意味を正しく捉えることができる。

ユダヤ人の祭りであるオスンジョルと、キリスト教の祭りである聖霊降臨日は、実際には同じ時期にあたるが、新約を通してその意味が拡張され、決定的に様変わりする。旧約のチルチルジョルが農耕社会で最初の収穫の実りを神に捧げる日だったとすれば、新約時代のオスンジョルには、イエス・キリストが復活後40日間地上におられ、昇天されてから10日目(すなわち50日目)に聖霊が下るという特別な出来事が起こり、新約教会が始まる。これが『使徒の働き(使徒行伝)』2章に記された聖霊降臨の出来事である。

旧約での「初穂をささげる祭り」という意味が、新約時代にはイエス・キリストによって「新たな霊的初穂」として解釈される。使徒パウロも『コリント人への第一の手紙』15章20節で「しかし今やキリストは、眠った者たちの初穂として死者の中からよみがえられました」と宣言している。すなわちイエス・キリストが死に打ち勝って復活され、罪の権威を打ち砕かれたことこそが「初穂」であり、この初穂によって後に続く無数の信仰者、すなわち教会共同体が生まれるという神学的・救いの歴史的原理が表されているのだ。

パウロはここで終わらず、イエス・キリストを単なる「初穂」として提示するだけでなく、キリストの死と復活、そして昇天に至るすべての救いの歴史的出来事が、旧約の預言と律法を完成する決定的な出来事であると解釈する。律法と預言は「誰が、どのようにして人類を救うのか」を多様な象徴や預言で示してきたが、イエス・キリストこそがそれらすべての成就者であり、律法の終わりであるというのだ(ローマ10:4)。そしてその決定的勝利のしるしがまさに復活である。したがってキリストが初穂となられ、その初穂に続いて主を信じるすべての者が次々に「後の実り」となる。

ここで、『使徒の働き』2章に登場する120名の弟子の群れは、象徴的意味をもつ。イエスは復活された後、地上で40日間、弟子たちを再び集められた。弟子たちは十字架刑を目の当たりにして失望のあまり散り散りになっていたが、復活したイエスは直接彼らのもとに現れ、十字架の意味が敗北ではなく勝利であることを知らせた。『ルカによる福音書』24章には、エマオへ向かう二人の弟子の物語が代表的に描かれている。彼らはイエスの死に絶望して故郷へ戻る途中、復活されたイエスに出会い、「十字架が敗北ではなく、律法と預言の成就」であることを悟り、心が燃やされる経験をする。これと同様に、バラバラになっていた弟子たち一人ひとりが復活のイエスに会い、その40日間のうちに教えを受け、再び結集した。その40日の締めくくりにイエスは昇天され、弟子たちはエルサレムを離れずに聖霊を待ちなさいという命令を受ける(使1:4-5)。

そうして10日が過ぎ、つまりイエスの復活から50日目となる日に、いよいよ聖霊が降臨する。新約聖書はこれを非常に劇的な言葉で描写する。「五旬節の日が来て、彼らがみな一つ所に集まっていたとき(使2:1)」、突然天から激しい風のような響きが起こって家中に満ち、炎の舌のようなものが分かれて弟子たちの上にとどまり、彼らは聖霊に満たされて他国の言葉で話し始めた。これは『ヨエル書』2章が預言していた言葉が成就した出来事でもある。ペテロはヨエル書2章を引用しつつ「神はおっしゃる、終わりの日に、わたしはわたしの霊をすべての人に注ぐ」と宣言する。かつては預言者や特定の指導者など、ごく限られた人々だけが聖霊に満たされたが、今や年齢や性別、身分を問わず「主の名を呼ぶ者すべて」に聖霊が注がれる時代へと転換したのだ。

特に張ダビデ牧師は、この『使徒の働き』2章の出来事こそが新約教会が本格的にスタートする時点であることを重ねて強調している。イエス・キリストが初穂となられた後、その後に続く120名の弟子たちが聖霊を受けて「後の実り」として熟し、ここから初代教会が始まったからだ。初代教会の胎動は偶然ではなく、イエスの復活、昇天、そして聖霊降臨という救いの歴史の重要な流れの中で自然に起こった。大麦を刈り取るメクチュジョルの意味が拡張され、今や霊的な収穫—すなわち主を信じる者たちを取り入れる「収穫の時代」が始まったということになる。

そういうわけで、ペンテコステ(オスンジョル)は「収穫感謝祭(Harvest Thanksgiving)」の意味も同時に含んでいる。旧約でメクチュジョルは大麦の収穫後の感謝祭であったが、新約教会では聖霊が下られたことによって「魂の収穫」が始まり、それを記念する日にもなった。実際、今日の韓国教会や世界の多くの教会では秋に感謝祭を守るが、聖書的伝統から見ると、聖霊降臨日(ペンテコステ)こそが最も聖書に合致した「収穫感謝祭」と言える。張ダビデ牧師はこの点を説教で取り上げ、「私たちが秋に守る感謝祭は歴史的・文化的背景から移行してきたものであり、聖書的伝統に即して言うならば、オスンジョルこそが真の収穫感謝の意味をもつ」としばしば喚起している。

さらにペンテコステは「収穫の節句」であると同時に「種まきの節句」でもある。農耕の原則を見れば、ある作物の収穫が終わった後に、また次の種まきが行われる。初めの雨と後の雨がそれぞれ種まきと結実を助けるように、聖霊もまた教会の成長と収穫、そして再び種をまく営みを可能にする。『使徒の働き』2章では、一度に3千人が回心する奇跡的な出来事が起こるが、これは「実が即座に刈り取られた」恩恵であると同時に、教会が再び福音の種をまきに出ていく道標のような出来事だ。このように聖霊のみわざは一度きりで終わるのではなく、教会共同体を収穫と種まきのサイクルへと絶えず導いていく。

また、旧約の象徴として「五つのパンと二匹の魚」(オビョンイヤー)の物語を通して考えてみると、イエスが大麦のパン5つと魚2匹で5千人を養われた。ここで「大麦のパン5つ」という象徴もまた、オスンジョルの「5(pente)」の意味と結びついて解釈されることがある。ペンテコステが「5が繰り返されて50になる」というように、大麦のパン5つは主の恵みによって人々が食べて満たされる神秘を示している。それに「魚2匹」が加わり、無数の人が満腹する奇跡が起こったというわけだ。張ダビデ牧師はこれらの象徴を通して「ペンテコステは天の糧によって豊かにされる日であり、同時にその糧を人々に配る教会の使命が始まった節句」であることを強調している。

結局、旧約のチルチルジョルが「初めの雨と後の雨」によって大麦の収穫と、やがて来る麦(小麦)の種まきを備える節句だったように、新約のペンテコステも、教会がすでに信仰を告白した者たちをケアしつつ、まだ福音を知らない人々に種をまくための節目となる。だからこそペンテコステを一年の祭りのひとつとしてだけ記憶するのではなく、全人類が神に立ち返る「収穫の最初のボタン」であり、さらに新たな収穫へ向けて種をまく「パイオニア的な起点」として位置づけるべきだと説く。その際、聖霊はそれら一連のプロセスを導かれるお方であり、教会の内外で聖徒たちを教え、神の御心を示すよう助けてくださる。

要約すると、第一にペンテコステは旧約のチルチルジョル・メクチュジョルに根差しており、大麦の初穂を神に捧げる豊かな感謝の節句として守られてきた。新約に至っては、イエス・キリストが律法と預言をすべて成就され、復活によって「眠った者の初穂」となられ、そして昇天後の50日目に聖霊を送られることで旧約の祭りを新たに再解釈・再現された。第二に、これは単なる「ある節句」の概念にとどまらず、教会時代の本格的幕開けへとつながる。最初の実りを通してさらに別の実りが取り入れられる「収穫感謝」であり、同時に教会が再び福音の種をまく「種まきの時点」でもあるという意味である。このすべての過程を通じて教会共同体が形成され、その後『使徒の働き』に記録される驚くべき宣教の歴史へとつながっていく。張ダビデ牧師は、これを「ペンテコステは聖霊の風と火によって聖徒と教会が実を結び、さらに世の中へと蒔かれるように促す出来事」と表現している。

こうした視点から、張ダビデ牧師をはじめ多くの説教者は、旧約の意味と新約の成就を統合的に教えつつ、信徒たちがペンテコステを単なる暦上の記念日としてだけ捉えないよう勧めている。ペンテコステこそ、十字架と復活によって備えられた救いのみわざが全人類へ拡張される大きな転換点であり、初代教会共同体が誕生した歴史的日だからである。ここで信徒が確認すべき核心は「私は本当に聖霊によって主の救いのみわざに参与しているのか」という問いだ。というのも、ペンテコステの聖霊降臨は個人の感動にとどまらず、教会の聖なる出発、そして福音宣教の炎が燃え上がった出来事でもあるからである。

そういう意味で、現代の教会がペンテコステを迎えるたび、単に過去の歴史だけを記念するのではなく、聖霊が今日の私たち一人ひとりを通してどのように働いておられるのか、そして教会がどのようにこの世で「収穫」と「種まき」の使命を果たすべきかを省みることになる。張ダビデ牧師はこの文脈で「聖霊が教会に来られた目的は明確である。すなわち、私たちがみことばと真理に目を開き、罪から立ち返り、地の果てまで福音を宣べ伝える力を与えるためだ。果たして私たちはその力を受け取り、実際に行動しているだろうか?」と繰り返し問う。この問いは初代教会だけでなく、あらゆる時代の教会とクリスチャンに与えられている。


2. きと教会共同体のビジョン

ペンテコステに聖霊が下り、本格的に初代教会が誕生したとき、『使徒の働き』2章は三つの主要な出来事を中心に展開される。第一に、120名の弟子に下った聖霊降臨そのもの。第二に、それに対するペテロの最初の説教。第三に、その後続く初期教会の姿である。ここでペテロの説教は『使徒の働き』2章14節から36節あたりに記録されており、その核心は「あなたがたが十字架につけたイエスこそ、神が約束されたメシアであり、ダビデの子孫として来られた王である」という事実である。そして「あなたがたがそのように殺した方が復活された」という力強い宣言が続くと、これを聞いたユダヤ人たちは大きな衝撃を受けた。

このとき彼らは「兄弟たちよ、私たちはどうしたらよいのか」(使2:37)と嘆きながら悔い改め、イエスの名を信じて救いにあずかったが、その数は一度に三千人に上ったと記されている(使2:41)。これこそが初代教会の始まりであり、具体的な形だ。たった一日で三千人という信仰共同体が生まれたのだから、それは人間的手段や知恵によるものではなく、まったく聖霊の力と神の摂理の中で成し遂げられたことだった。ペテロの説教は真理を見抜いており、復活の力が生きて働いていたので可能だったと言える。ここで私たちは、「聖霊降臨」が「真理の悟り」へと直結する事実に注目できる。ペテロ自身もイエス・キリストに対する確信的理解を得、彼の証言によって不信仰だった人々も深い悟りを得るようになった。聖霊は真理の御霊(みたま)であるがゆえに、イエスの生と死と復活を「真理通り」に解釈し受け入れるよう、私たちの内面で働かれるのだ。

初代教会の信徒たちは聖霊に満たされ、互いに交わり、パンを裂き、祈る共同体となった(使2:42)。彼らは財産や所有物を共有して貧しい人々を助け、毎日神殿に集まって神の言葉を聞き、ともに食事し交わった(使2:44-46)。その姿は、ある種「天国共同体」が実現しているようにも見える。もちろん、これが完全無欠のユートピアだったわけではない。『使徒の働き』をさらに読み進めると、教会内での対立が生じたり、外部からの迫害を受け始めたりもする。しかし初代教会が示した純粋で情熱的な信仰と聖霊の力に対する応答は、その後すべての教会と信徒が見習うべき本質的価値として今なお残っている。

『使徒の働き』のその後の内容も自然に続いていく。使徒たちは福音を宣べ伝え始め、特にペテロやヨハネといったイエスの弟子たちはエルサレムで大きなリバイバルを経験する。そのリバイバルに対してユダヤの指導者たちは激しい迫害を始め、その結果、教会は四方に散らされることになった。しかし散らされた信徒たちも福音を恐れずに伝え、むしろそのおかげでユダヤ、サマリア、そして地の果てへと福音が広がるという逆説的な結果が起こる(使8章参照)。このように、聖霊に導かれる教会は内なる迫害や外的困難の中でも真理を握り続け、成長していった。そして『使徒の働き』中盤に至ると、パウロによる異邦人への宣教が本格化し、福音はユダヤの境界を超えて異邦の地へと広がっていく。

張ダビデ牧師は、『使徒の働き』に記録されたこのダイナミックな教会共同体の姿を基に「教会とは本質的に宣教共同体である」と強調する。その根拠はまさに『使徒の働き』1章8節の「ただ聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けてエルサレム、ユダヤ、サマリア、そして地の果てにまでわたしの証人となるだろう」というイエスの言葉にある。聖霊が臨まれる目的は、教会を立て、その教会を通じて万民に福音を伝え、より多くの魂を収穫させることである。結局、ペンテコステの聖霊降臨は単なる「神秘的体験」を与えるための出来事ではなく、「福音の証人として生きる」ために教会共同体に力と知恵を供給する出来事だったといえる。

特に『使徒の働き』13~14章に記録されているパウロとバルナバの第一回宣教旅行は、聖霊の指示に従って動く教会の典型的姿を示す。アンティオキア教会は断食し祈っているうちに聖霊の声を聞き、パウロとバルナバを選び出して世界宣教のために派遣する。このとき、彼らはパウロの学識や能力だけを頼んだり、バルナバの人間的リーダーシップにのみ期待するのではなく、あくまで「聖霊が導かれるから」彼らを送り出した。そして二人の巡回経路に沿ってさまざまな場所で福音が宣べ伝えられ、ギリシア人やユダヤ人、そして多様な異邦人がキリストを受け入れる。初代教会共同体の持つ驚くべき霊的活力は、現代教会が手本とすべき原型(モデル)である。

その後『使徒の働き』15章に出てくるエルサレム会議も非常に重要な出来事だ。異邦人に福音を伝える過程で、割礼や律法順守などをめぐる問題から対立が起こったとき、教会の指導者たちはエルサレムに集まって会議を開き、「異邦人であってもキリストを信じるなら区別なく救いに与る」という結論に達する。これは教会が当初から完璧な姿をしていたのではなく、多様で複雑な問題に直面するたび「聖霊の導きを求め、共に議論」するプロセスを通じて成長したことを示している。使徒たちは『使徒の働き』15章28節で「聖霊と私たちは、これら必須な事柄のほかに何もあなたがたに負わせないことを良いと考えた」と述べる。つまり何かを決定するとき、人間の知恵だけでなく「聖霊がどのように導かれるか」を見極めたのだ。

このように初代教会がもっていた霊的情熱と祈り、互いに仕え合う愛と聖霊への依存姿勢は、現代教会が取り戻すべき本質的価値である。張ダビデ牧師は「教会は宣教の前哨基地であり、霊的戦いを準備する本部のようなものだ。私たちがこの地上で霊的戦いをしつつ福音を宣べ伝えるには、必ず聖霊の力と導きが必要だ」と語る。だからこそ教会がペンテコステを記念する際、この出来事がただの2000年前の歴史的事実で終わらないよう、たゆまず祈りつつ教会の使命を点検しようと呼びかけるのである。

さらに『使徒の働き』後半では、パウロが第二、第三回の宣教旅行を通じて小アジアやヨーロッパ各地へと足を伸ばす。ピリピ、テサロニケ、コリント、エペソなど、ヘレニズム文化圏の主要都市に福音が伝えられ、教会が建てられていく。そして『使徒の働き』の終盤には、パウロがローマへ向かう道程が描かれる。当時ローマは「地の果て」のように認識されていたため、「地の果てまで福音を伝えよ」というイエスの命令が実現されたと見る象徴的場面である。実際、パウロがローマに着いてからも、自宅軟禁状態でありながら絶えず福音を伝え続けたという記録(使28章)は、「教会はどのような状況でも福音宣教をやめない」という力強いメッセージを残している。

今日も教会はこれと同じ召しを受けている。時代と文化が変わり、環境が変わっても、「地の果てまで福音を宣べ伝えよ」という主の命令は変わらない。聖霊は今なお活動され、教会が真に従順になって祈り、互いに一致するとき、どこでも驚くべき収穫のみわざを成し遂げられる。同時に、初代教会のように多くの問題や対立、混乱した異端思想もあるが、そうしたこともまた、教会が「聖霊を頼りつつ共に集い、見分けよう」とするときに克服していくことができる。もし教会が人間的な判断に溺れたり、世俗化した権力構造に陥ったりすると、聖霊のみわざは覆い隠され、恵みと力が失われる。しかし悔い改めて聖霊の声を再び聞こうとするならば、教会はいくらでも新たに建て直される。

ここで張ダビデ牧師は「聖霊のみわざにあずかる教会は決して留まり続けない。常に広がっていき、宣教と救済と分かち合いを通して世のただ中に福音の真理を示していく」と力説する。これは初代教会がエルサレムという地域的範囲を超えて異邦世界へと広がっていった事実で十分に確認できる。さらに教会内部でも言語や文化の壁が徐々に取り払われ、異なる背景を持つ人々が一つの体のように連帯し、「神の国」という新しいアイデンティティを築いていった。こうした変化を可能にした根本的エネルギーこそ、やはり聖霊である。ペンテコステに降臨されたあの聖霊は、今も教会を導き、イエス・キリストの愛と救いのご計画を悟らせてくださる。

『ローマ人への手紙』8章26節で使徒パウロは「私たちは何をどう祈るべきかを知りませんが… 聖霊ご自身が私たちの弱さを助けてくださる」と言う。これはイエスの「私はあなたがたを孤児のようにはしておかない」(ヨハネ14章要約)という言葉と完全に一致する。イエスは昇天直前、弟子たちに「私が去っていけば、助け主(パラクレートス)をあなたがたに送る。その方はあなたがたと共におられる」と約束された(ヨハネ16章要約)。そしてその約束はペンテコステで成就した。聖霊は教会に対する神の細やかな、思いやり深い愛を示し、真理を教え、束縛された魂を解放し、教会を宣教の道へ導かれる。個人レベルで言えば、聖霊は私たちの内面を変革し、イエスに似た者へと成長する「聖化」の道を歩ませてくださる。教会レベルでは、聖霊はそれぞれのたまものを与えて多種多様な奉仕と仕え合いが行われるようにされる。そして世の中では、聖霊が力を与えて福音を伝えさせ、困窮している人々を助けさせ、神の愛を実践するように導かれる。

ペンテコステ以降、弟子たちが得た確信と大胆さは、まったく聖霊の力から来たものだったと言える。イエスが十字架につけられたとき、弟子たちは恐れて隠れていた。しかし聖霊降臨後、彼らは同胞のユダヤ人たちの前で「あなたがたが十字架につけたイエスは復活された」と公然と叫び、また公的な裁判所でもはばかることなく福音を証しした。初代教会はその大胆さと愛によって互いを助け合い、外部の迫害や内部の対立を乗り越えた。張ダビデ牧師は、この点を「結局、初代教会の力は聖霊によるものであり、その聖霊は今も変わらない神である。私たちの状況がどうであれ、聖霊のうちでみことばを握って進むなら、いかなる障害も福音伝達の妨げにはなり得ない」と説いている。

そして教会の使命は終わりまで続く。ペンテコステから始まった聖霊のみわざは、『使徒の働き』に描かれるパウロのローマ行きで一区切りがつくのではなく、その後も地上のすべての教会が継承していく救いの歴史のプロセスである。『使徒の働き』には29章が存在しないが、実際には教会があるところでは今も「使徒の働き29章」が書き続けられている、と多くの説教者が強調する。すなわち使徒たちの時代が過ぎ去っても教会時代は続き、聖霊の時代は続き、福音宣教の課題は今も有効である。ペンテコステは、その壮大な物語をともに始めた記念碑的出来事であり、この地上の最後のクリスチャンに至るまで続く使命の原点である。

このようにペンテコステの意味を「収穫」と「種まき」という二つの観点で説明することができる。まず神はイエス・キリストにあって初穂をささげられ、その後、弟子たち120名が聖霊によって熟して「後の実り」となった。その後3千人が回心し、教会が成長を続けたという点で「収穫の節句」としての意味が明確に示される。しかし、その収穫で終わらず、再び福音を世界に種まきする「宣教共同体」が生まれ、次の収穫を備えるというダイナミックな流れが続く。ゆえにペンテコステは、単に「大勢が集まって一度に大きく恵みを受ける」イベントではなく、「実りを神にささげると同時に、世へ向けてまかれる種となる」教会本来の姿を確立する日なのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=2fuLEttN1gs

張ダビデ牧師は、これこそ現代教会が忘れてはならないペンテコステの核心だと説く。教会がペンテコステを迎え、自分が受けた恵みを喜び感謝するのは当然だが、そこで終わってしまってはならない。むしろその感謝と恵みが他の人々へ流れ出るように、積極的に種まきに乗り出すべきである。その「種まき」は伝道や宣教に限らず、愛と奉仕を通して世にキリストの香りを伝えるすべての働きを含む。五つのパンと二匹の魚の奇跡で、大麦のパン五つと二匹の魚が無数の人々を満たしたように、教会に注がれた聖霊の力と恵みも、信徒一人ひとりを通じて世に絶えず流れていくとき、多くの魂が神の国を味わうようになる。この善い循環が続いていかなければならない。

この観点から見ると、ペンテコステは秋頃に守る「収穫感謝祭」と趣を異にするのではなく、むしろいっそう聖書的な感謝祭の原型であると言える。もちろん、歴史的・文化的背景によって今日では秋に感謝祭を守る教会の伝統が広く根づいているが、神学的にも聖書本文の流れから見ても、ペンテコステこそが本来の感謝祭であり、かつ種まきの時節であることを思い起こす必要がある。張ダビデ牧師は「現代の韓国教会も、少しずつペンテコステの意味を深く再発見し、感謝と宣教が入り交じる真の節句として育てていくことが求められている」と助言している。私たちが享受しているすべてのもの—物質的であれ霊的であれ—結局は神の恵みから来ていると告白し、その恵みをさらに他者へ伝える決断を新たにする日だからである。

結局、教会は聖霊によってこれらの営みを主体的に担うことができる。聖霊なしでは誰も真の悔い改めや愛、大胆さや忍耐を身につけられず、教会共同体に本当の一致や仕え合いも生まれにくい。しかし聖霊が共におられれば、教会は対立を乗り越え、新たな道を切り拓き、地の果てまで福音を伝えようとする熱意を失わずにいられる。そしてその結果として再び多くの実りがもたらされ、さらにその実りが新たな種となって広がっていく。ペンテコステによって始まったこの歴史は、初代教会だけの物語ではなく、今もなお教会が継続して担っていくべき使命である点で大変重要である。

張ダビデ牧師は「私たちが真にペンテコステの精神を回復するならば、教会のあらゆる礼拝や宣教、教育や奉仕が、聖霊の実りを結ぶ豊かな祭りとなるだろう」と教える。ペンテコステの意味は、そのような「豊かさ」にこそある。聖霊のみ実によって私たちが成長し、その実を通して世が生かされ、さらにその働きのために絶えず祈り、ささげ物をし、自分自身を献げる捧げ物が起こる共同体こそが、ペンテコステの教会である。初代教会がそのモデルを示したならば、今もそれを見習い実践する人々が「現代のペンテコステの教会」を築いていく必要がある。

このように聖霊降臨日(ペンテコステ)は、教会の誕生とともに福音の世界的拡散と共同体的生活の原動力となった。私たちがこれを記念するとき、はたして初代教会が示した宣教の情熱や隣人愛、そして互いに仕える共同体性を再現できるのか、自らに問う必要がある。その出発点は、私たちの心の中に聖霊を歓迎すること、そしてその方に全幅的に従うことである。ペンテコステの聖霊降臨はもはや過去の歴史ではなく、今も続いている現在進行形の出来事であり、教会が真にこの召命に応えるなら、さらに大いなるみわざが起こり得る。結局すべては、ペンテコステに下った聖霊の力強い風と燃える炎の情熱から始まる。教会の内にとどまることなく世へ流れ出すその熱い恵みこそ、私たちがまた新たな収穫と、次なる種まきの奇跡を経験する鍵となるだろう。

張ダビデ牧師はペンテコステを迎えるにあたり「自らが実りとなってささげられ、同時に種としてまかれよ」と力説する。ここで「実りとなってささげられる」というのは、自分自身を神に完全に捧げ、主に喜ばれる献身と感謝のささげ物を捧げることを意味し、「種としてまかれる」というのは、自分の人生が福音の種として世にまかれるということを指す。これは人間的な野心や教会の世俗的成長を追い求めるのではなく、聖霊が導かれるままに、自分が立つ場所を礼拝の祭壇であり宣教の現場とする決断を示している。初代教会はまさにその道を歩み、今も多くの教会と信徒たちがその道を歩んでいる。ゆえに私たちはペンテコステを通して、より深い感謝と情熱を回復し、「地の果てまで福音を宣べ伝えよ」という主の大宣教命令を自分の生活の場でどう具体化するかを考え直すべきである。これこそが聖霊降臨日の本質であり、旧約のチルチルジョルやメクチュジョルという根が新約時代に実を結んだ真の意味だと言えよう。そしてそこにおいて、張ダビデ牧師が繰り返し強調する「教会の本質回復」と「聖霊の支配」が、韓国教会と世界の教会が未来へ進むうえでの重要な指針となるに違いない。

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